大豆200gから、約1Lの豆乳。
しばらく定期的に作っていた頃(といっても数ヶ月間)の記録を引っ張りだしてみて、前に自家製豆乳を作ってから、1年半以上が経過していることに気づいてびっくり。やめてしまった理由は、夏は暑い!ということと、あまりにもおからが続々とできるので、おからに飽きてしまってやめてしまった、という二本立て。
そのときの台所日記やらブログの記録を見てみると、
「豆乳までの過程なら、半量でより気軽にできそう」(豆腐づくりの1プロセスとしてやっていたので)
な〜んてえらそうなことを言っていますが(!!)、ひさびさにやってみて、またしても悪戦苦闘。
なんと、材料や道具の準備から、後片付けを終えるまでには2時間弱が経過でぐったり(!)。当時はとうふづくりを1時間以内でこなしていたのに(!)です。
長期間にわたり、定期的に繰り返しをしていないことは、すぐ忘れてしまいます。
というわけで1年半前に数ヶ月しかやっていない豆乳づくりは、当たり前ですがぜんぜん身についていなく、要領を得ず段取りやプロセスに無駄が多かったなと、終了後にふりかえり。。。
結果(お味)は満足がいくものでしたが、作業には改良の余地がおおあり。
豆乳を入れておくビンの煮沸消毒を事前に済ませておくとか、道具はそのつど引っ張りだしてくるんじゃなくて、全部そろえて開始するとか、基本的なことをすっかり忘れて無駄な動きをたくさんしていて、非常に疲れました。
それにもかかわらず、もうすでに予定して、麹も大豆も準備済みだった味噌の仕込みも同じ日にしなくてはならなく、すべて終了した頃には本当にぐったり。(豆乳2時間+味噌仕込み1時間)
豆乳は、別の用途にとひたしてあった大豆を思いつきで転用したんですが、思いつきでこういうことをするもんじゃないですね。
ところで、今回豆乳づくりをまた再開しようかな、と思い立った理由。
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壊れたときが本当の意味でその「モノ」と自分との関係のハジマリのような気がするのです。
壊れた瞬間から、自分とその「モノ」との関係が、
手をかけて修繕するプロセスを経るだけの愛着があるのか、
そもそも修繕して使い続けることを前提に作られているものなのか、
しろうとにも修理できる、単純明快な作りなのか、
なんだか理屈っぽく聞こえますね。。
でも、要するに、こんな風に真剣に手をかけてかかわろうとするなら、たくさんの「モノ」は所有できなくなる。
というのは、結局は自分が丁寧に手をかけてかかわれる範囲っておのずと限られてくるから。
こういうことを意識して生活しているうちに、近頃、自分が納得して丁寧に扱って所有できる「モノ」の量が、自然と見えてくるのが面白いなと思うのです。
「断捨離」、とか言って悩まなくても単純明快。
こんなメモが出てきました。
「暮らしの手帖」の編集長である、松浦弥太郎氏の著書を読んで、気に入った点を書きとめていたものです。
古いノートを整理していたら出くわしました。
それは「道具」について。
使い方を間違えた「道具」は、何の役にも立たないうえ、無理を続けたら「道具」そのものが壊れてしまう。
「道具」の"手入れ"も怠らず。
それから、自分自身をもまた「道具」と考えてみる。
つまり、上記の文章の中の「道具」という部分を、「自分」におきかえてみるだけ。
だそうです。
おもしろい発想ですよね。
普段から、本を読んだとき(雑誌も含め)気に入った部分を手書きでノートに書きとめておく、ということをここ数年しているのですが、おもしろいことにその同じ本を後で読んだとき、ぜんぜん違う部分がその時々によって自分のアンテナに引っかかってくるので、またこの人の本を読んでみたくなりました。
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マイルドな寒さとはいえ、いつもその夏から冬へと以降する季節の移り目の過程が苦手で、エネルギーが下がる感じがして、うまくオーストラリアの季節とお付き合いできている感じがもてていませんでした。
そんなこともあって、今年こそ何か意識的に対策をして、この時期の到来を、楽しくエネルギー低下を感じなくお迎えするワザ(おおげさ!)を編み出そうといろいろ頭をめぐらしていました。
それで思いついたのが、大掃除。
日本だと、12月、大晦日近くにするのが恒例。
「あたらしい年を迎える気持ちの切りかえ」、として子供のころから身をもって体験していたこの昔からの智恵を応用し、「冬、いらっしゃい」行事としてやってしまおう、と思いついたのでした。
(ここに行き着いたきっかけは、最近読んだ本(「お坊さんが教える こころが整う掃除の本」)に影響を受け、わたしの朝のルーチンとして定着した、拭き掃除。)
今回の大掃除のメインイベントは、家中の窓ガラス拭き。
窓という窓を、すべて内側と外側から(外ははしごをかけて)、まずは雑巾で水拭きし、その後新聞紙で磨きあげるという方法を取りました。
新聞紙で磨く方法は、ずいぶん前にどこかで見聞きして以来やっているのですが、これ、だまされたと思ってやってみてください。
ものすごい効果で、ぴっかぴかになります。拭いたあとのくしゃくしゃになった新聞紙は、うちのミミズさんの餌になるし、水は庭にまけるし、ノンケミカル、ノンウェイストです。
(後日、友人からオレンジの皮で拭くのもいいと聞きました。これも家中がいい香につつまれそうで、魅力的。)
ただこれ、一人でやると、duty(役務)的になって、おもしろくもなくつらい感じがぬぐえないので、そうならないためのポイントを。
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先日書いた日傘に続き、ずっと持っていたのに使っていなくて、最近思い出して使い出し、とっても気に入っているもののひとつです。
母から譲り受けて日本から持ってきていたスタンダードな形のものを、ふと使ってみようかと思って出してきたのは、半年くらい前でしょうか。
きっかけは、オーストラリアに来てからずっと悩まされていた髪の毛のぱさつき。
年齢のこと、水の違い、空気の湿度の違いなど、いろいろな要因がからみあってだと思うのですが、水分がどんどんなくなってぱさぱさになっていく髪の毛がとてもとても気になり、いろいろと試行錯誤をしてきました(髪を洗う頻度をへらしたりケミカルフリーのシャンプーをさらに薄めて弱めてつかってみたりなどなど)が、納得のいく改善がみられず。
もうこれは受け入れるしかないかな、と半分あきらめ気味だったのだけど、なんとなく、そうだ、ツゲの櫛が髪の毛にいいと聞いたことがあったな、と思い出して手元にあったものを出してみて、あまり期待せず試してみました。
はじめは別に何の変化もみられなかったのですが、頭皮がマッサージされる感触が気持ちよく、とりあえずしばらく続けていました。そのまま数ヶ月たち気づい てみると、いつのまにかトリートメントも何もせずに艶が戻り、久しぶりに満足のいく手触りが戻ってきていることを自覚したのです。(あくまで以前の髪の毛 のコンディションとの比較で、です。あしからず。)
それで、つげぐしの何がよかったのかな、と考えてみて思いつくのは、
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皆さんとその日その時間を共に過ごし、去年1年のことをいろいろと振り返って考え、今のわたしはどういう風に感じているのかをていねいに振り返ってみるきっかけをいただきました。
企画をし場所を提供してくださった友人夫婦に、そしてその時を共に過ごした皆さんに、あらためて、ありがとうとございました、とお伝えしたいと思います。
当日、ずっと震災にまつわることについて話をしていたわけではなく、どちらかというとほとんどの時間はリラックスしてとりとめのない話をして、日本時間に合わせて黙祷、それから別の友人が用意してくれていた詩の朗読(和合亮一さん)を一緒に聞き、その前後に少しずつ、思うことをぽつぽつと皆で言葉に出したり、ただ黙って聞いていたり。
そんな感じで過ごしました。
自分自身のアタマの中のことなのに、ひとりでは客観視できていなかった自分自身の考えや情報が、人と対話することにより見えてくることってあると思うのですが、この日がそんな感じでした。
その場で見えてきたというより、そこで「きっかけのしっぽ」みたいなものをつかんで、家に戻って夜、その日のことを夫と話しているうちに、ぼんやりしていたものが捉えどころのあるものになった、というようなそういう感覚。
この日の1週間前くらいに聞いた日本のラジオ放送の録音のことを、ずっとブログの記事にしたいな、と思って寝かせていたのだけど、この感覚を得て書けるように思えたので今日はそのことを。
その放送は、NHKのラジオ深夜便、という番組のもので、日本にいるころに母がよく聞いていたことから、わたしも自然となじみのある番組でした。中でもいろんな方面での著名人と、パーソナリティとの対談(インタビュー?)がけっこうよかったことを今年になってふと思い出し、リンクをたどってみました。
そして最初に目に付いた、糸井重里さん(コピーライター)の回のものを聞いてみたのですが、これがものすごく良くて、2度3度とくりかえし聞いてしまいました。
その日のテーマは、「ふつうのぼくらにできること」というもので、震災のことを中心にいろいろと糸井さんの姿勢、考え方の推移など、いままでのことこれからのことを語られています。お話は震災の被害にあった方々を、土葬せざるを得なかった、二つの村のうちのひとつ、宮城県の山元村、というところに糸井さんが縁を持つきっかけとなった出来事からはじまっています。
(2012年、4月9日までウェブ上で保存されていて聴くことができます)
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